運がいい君が好きだ!?新しい何かとの出逢いが自分を変える。
先日、所属している経営者の勉強会に参加してきました。
政治と宗教の話は基本的にしない勉強会なんですが、
珍しく仏教の因縁生起の考え方が紹介されていました。
と言っても仏教が宗教になる前の原始仏教哲学の話しなので、
宗教というより哲学の話ですね。
因縁生起説は大学受験の倫理でも学ぶ、
仏教の基本となる考え方です。
因縁生起、略して「縁起(えんぎ)」ですね。
こちらの方が一般的に知られていると思います。
さて因縁(いんねん)と聞くとなんだかいやーなイメージがありますが、
講師の方曰く、因とはすべてのおおもとであり、縁とは出逢いのことです。
たとえばここに「一粒の籾(もみ)」があるといたします。この場合、籾はすなわち因です。この籾をば、机の上においただけでは、いつまでたっても、一粒の籾でしかありません。キリスト教の聖書のうちに、
一粒の麦、地に落ちて、死なずば、ただ一つにて終わらん。死なば多くの実を生ずべしとあるように、一たび、これを土中に蒔き、それに雨、露、日光、肥料というような、さまざまな縁の力が加わると、一粒の籾は、秋になって穣々たる稲の穂となるのです。
『般若心経講義』(高神覚昇著)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000269/files/1543_24303.html
つまり、籾はほっといたら籾のままだけど、水や土や光と出逢うと、稲となり稲穂をつける、と。
人で言えば、縁とは「 本との出逢い、人との出逢い、そして新しい考え方との出逢い」のことになりそうです。
ひとは出逢いでしか成長できないし、実を実らせることができないのだとするのが、
この因縁生起説の考え方なんだそうです。
そして土には良い土もあるし、良くない土もある。
出逢いにも良い出逢い、良くない出逢いがある。
どんな実が実るのか、どれだけ実るのかは出逢いで決まる。
運というのもそうなのかもしれません。
私達の勉強会ではたまに「運がいい君が好きだ」という言葉を聞きます。
この因縁生起説に則れば、「たまたま」ではなく、
運は出逢いの結果ということができそうです。
いい運は然るべき出逢いにより運ばれてくる…のかもしれません。
良い出逢いが良い運のように見えるのかもしれません。
塾だっておなじだなぁと感じていました。
いま目の前の子に勉強だけでないさまざまな出逢いを提供し、
その子がもっとも輝けるようにしていきたいなぁ。
そんな風に考えるのは考え過ぎでしょうか。
いえ、私達は教育機関であり、「学習」塾ではないという自負があります。
できることは多くは無いですが、なるたけ多くの出逢いを提供できるように、
これからも努力してまいります。
それにしても講師の方の経験と知見には毎回感服しきりです…
私も古典をしっかり勉強して本質を見抜く目を身につけていかないといけません。